4代目のパワフルランドロード
チャフォード・アームズのバリー・レパード
(ケント州)
風光明媚な村が多い事で知られる、ケント州のトンブリッジ・ウェルズ。タウンセンターこそ、普通の町だが、ちょっと離れると豊かな田園風景が広がっている。
トンブリッジ・ウェルズ駅からタクシーを捕まえ、運転手に「フォードコムのチャフォードアームズって知ってる?」と聞いたら、「よく知っているよ、食べ物がおいしいんだよな、あそこは」という答え。なんだかそれだけでいい予感がしていた。
なんと言ってもこれから向かうそこは、「テイルズ・フロム・カントリーパブ」「グッドビアガイド」「グッドパブガイド」すべてに掲載されている。これは何かがあるに違いない。期待はいっそう膨らんだ。
10分くらい走ると、古いヴィクトリアンの建物が見えてきた。「テイルズ・〜」の写真どおり! なんだかそれだけで感激してしまい、運ちゃんにチップを渡すのも忘れ、店に駆け込む。
どうやら、正面からではなく、パブリック・バーから入ってしまったみたいで、その部屋はこじんまりしている。カウンターに立っているその男がランドロードのバリーだとすぐに分かった。バリーには一ヶ月ほど前から日本からもイギリスからも何度も電話して、今日訪問する旨は伝えてある。硬く握った握手は、彼の心からの歓迎の意が伝わってきて、これだけでもう「来て良かったな」と感じてしまうほどだった。
でも、これで帰る訳にはいかない。なぜここの店がこれだけ有名なのか、それをつきとめるまでは、ここに粘る続けるぞ。そう思い、手始めにバリーに「一番軽いエールを」と言うと、ラーキンズというブリュワリーのトラディショナルエールをおごってくれた。ABV3・4%なので、乾いたのどには特に飲みやすかった。
さて、気づくともう午後6時を過ぎていて、さすがに日の長いこの国でもだいぶ傾きかけている。最初に写真を撮りたいと言うと、外を一緒に回って説明してくれた。
まず裏の庭の木は楡だが、ここにパブができた1861年当初からあるという。樹齢140年だ。ずっとこのパブを見続けてきた。
裏の庭の一番奥には、昔はサイダーを作ったという圧搾機が置いてあった。代々伝わるものをわざわざここに運んできたという。
そして看板だが、ごらんの通り、御者が馬を引いている絵。
「この屋号の由来については、ずいぶんと調べたんだ。アームズ(紋章)というくらいだから、昔チャフォードという領主がいたんだろうと思ったんだが、文献をいくら探しても見つからない。そのうちに、橋の側の地名だったということが分かってね。客の一人がChaffordのChaは、川に横たわっている、という意味の古語だと教えてくれたのがきっかけさ。Fordは浅瀬、だから、浅瀬に横たわっているもの、つまり橋のことで、そういう橋と、その名がついた地名が、このあたりだったということが分かってきた。それが分かるのに25年もかかったよ」
バリーは、そう熱っぽく語って、高い看板を正面から撮れるように、テーブルに乗れ、と勧める。ちょっと気が引けたので、お断りしたが、今思うと、そのとおりにした方が、彼も喜んだだろうな、と悔やんでいる。
さて、店内に戻った。さっき入ったパブリック・バーとラウンジは、外を回るか、真中を通っている廊下を通じてしか行き来できない、という昔ながらの作りだ。ラウンジとパブリックハウスのカウンターは、客同士は見えないような構造だ。
パブリック・バーの方には絵や写真が所狭しと貼ってある。よく見ると、クリケットのチームの集合写真とか、グラウンドを描いたものばかりだ。
聞くと、店のすぐ近くにクリケットグランドがあり、日曜日の試合後にはみんなが飲みに来るという。
ラウンジ・バーの方は、同じ店内とは思えないほど、装飾の趣が違い、天井からはポットが釣り下がり、銃やビンなどが、細部に渡ってきちんと飾ってある。本当の火をくべる暖炉もあった。建物自体の古さもそうだが、装飾も古さを感じさせる。聞くとやはり先代からの譲り受けも多いという。
さて、ここにあるもうひとつのエール、チャールズ・ウェルズのボンバディアをごちそうになりながら、バリーのこれまでを聞いた。
1942年に、当時父親が経営していたロンドン南東部のシッドカップのホテルで彼は生まれた。カンタベリーの学校を卒業後、聖職者になるための勉強を始めたが、すぐにそれに幻滅し、父が経営していたケント州のスマーツ・ヒルのパブで働き始める。どうして聖職者にならなかったの? と聞くと、
「罪人を救うのは、お祈りじゃなくて、ビールを注いだ方がいいってことさ」
といたずらっぽく笑う。聞くと、彼が家族で4代目のランドロードだというから、結局は血は争えないということだろう。
彼が若干23歳のころ、セラーに禁利品を持っていた近くのパブがライセンスをはく奪されたので、1861年にそれを取得した。当時は、最も若いランドロードとして、ギネスブックに載ったという。まあ貴乃花の史上最年少横綱のようなものだろう。要するに彼はランドロードのサラブレッドなわけだ。
どうして父のパブを継がなかったのだろう?
「決まってるだろ。オヤジと比べられるからさ。そういう風にパブを継いで、苦労しているやつがいっぱいいるぜ」
なるほど。
父のパブから数マイル離れたここ「チャフォード・アームズ」は開業以来いろんなオーナーを持ってきたが、彼が開業した当時はウィットブレッド社がオーナーとしてリースをしていた。(タイドハウスとどうシステムが違う?)当初は週に2ポンド、年間でも100ポンドくらいのリース料だったが、今や年間4万ポンド(約700万円! ひょえーー)、実に40倍にもなっている。
こんなこともあった。ウィットブレッド社が、看板を、御者が荷馬を引いているのではなく、ロバを引いているものに換えようとしたことがある。もう少し見栄えをよくしたかったからだろうか。しかしバリーには、以前の看板に親しみがあったので、地元の新聞に嘆願の広告を出したりして、とうとうウィットブレッド社にそれをあきらめさせてしまった。これは、きっと店自体のいいアピールにもなったことだろう。
こういった、彼が古いものを大切にしようとする姿勢は、他の部分でも表れている。ダイニング・ルームの天井に吊り下がるポットのうちのひとつは、代々伝わるヴィクトリアン女王から賜ったものだし、ショヴ・ハ・ペニーの台は、現在は他のところでは木製のものしか見ないのに、昔から代々使われている石の台だ。驚くことにコインは、石にこすれて、模様がすっかり消えて、平らにてかてか光っていた。
バリーは、他に地域への貢献として、ウォータースキーのチームや、シューティング協会を主宰している。ここから少し離れた、この村の集会所の鍵も預かっているという。集会所の周辺で、必ず開店している店だからだ。隣宅が留守の場合は、郵便物を預かったりもするという。
もちろん、バリーにとって、パブ経営はいいことばかりだったわけではないだろう。現に酔った客に殴られたことも何度かあるそうだ。でもそのときは、その後、気丈に彼らを追い出したという。さすが生粋のパブリカンだ。
さて、このように地域のパブリカンとして、忙しく動き回るバリーだが、内助の功はどうだったのかな? と、奥さんのアンに聞くと、
「最初は慣れなくて大変だったわ。料理も本を読んでずいぶん勉強したわよ」
実は彼女は2番目の奥さんで、最初の妻は彼の多忙についていけなかったという。アンはもともとはただの主婦で、バリーと再婚した当初も特に手伝う気はなかった。ところがやはり、生計を立てるためには、自分がキッチンに立たねばならなくなった。
普通の家庭から、いきなりパブで働いて、しかもパブに住んで、戸惑いはなかった? と聞くと、
「確かに、昼も夜もなく電話をとらなきゃいけないこととか、いやなこともあるけど、いろんな人に出会えるようになった、といういい面もあるわ」
「最初はほんのちょっと手伝うつもりが、気づいたら、18年間やっているわ。ずい分長いほんのちょっと、よね」と笑う。
アンの家族にはパブリカンがいたわけではないという。バリーと再婚したことで別世界に飛び込まざるを得なくなったわけだが、ここの料理の評判がいいのは、熱心に料理を勉強したアンのお蔭なのだ。バリーにとって、アンとの出会いは貴重だったわけだ。
料理といえば、ここのメニューは種類が多く、カニ、ドーバー・ソール(舌平目)、マス、スキャンピ、エビなどのシーフードが特に豊富だ。食材は海辺の町・へイスティングスからバリーが直接捕ってくることもあるという。
二人の二人三脚でうまくやってきた経営だが、最近ひとつの問題がある。
言わずと知れた「後継者」だ。
バリーに子はおらず、アンには息子と娘がいるが、どちらもパブリカンにはならないという。
「でもまあ、気にしないよ。誰もいなくても」
くったくなくそういうバリーだが、本心はどうなのだろうか。やはり、4代目として守ってきたものを、誰かに託したいと本当は思っているのではなかろうか。
バリーの、先代たちを大切にする気持ちと、ここのパブに対する愛着。妻の助け。30年ずっと通っている常連も多いのもうなづける。来てよかった。
おまけの話。僕とバリーが話していると、一人の常連が、僕が「グッドビアガイド」を持っているのを見て驚き、自分のものを車から出してきて、自分がおとづれたことのあるパブの話をしだした。スコットランドからウェルズまで、実にたくさんのパブに印がしてあった。イギリス人には、本物のパブを求めて、こうして渡り歩いている人がいるんだな、と思うと、なんだか嬉しくなって「エールビール・フォーエバー」と乾杯した。
その他、常連客や子どもと話し、楽しい時間を過ごした。今はもう辞めてしまったが、かつてB&Bをやっていたこともあるというから、もしそうだったら、僕は泊まっていたに違いない。
話はここで終わらない。
何杯もエールビールをごちそうになっていたら(って俺もずうずうしいね、一回くらい支払えよ、って感じ?)、時間は夜9時を過ぎ、だんだんと暗くなってきた。次の日は早くから予定があったので、もうロンドンに戻らねばならない時間となった。なんと彼は僕を駅まで送ってくれるという。車の中で道々のパブを指差しながら、あそこは5年くらい前にできた、などと解説をしてもらっていると…
「俺は、実はガンなんだよ。去年手術をしたけど、うまく言ったかどうかも分からない。でも俺は気にしないね。今が楽しいからそんなことぜんぜん気にしない」
彼はI don't careと何度も言った。僕は…なんでだろ? 涙がぽろぽろ出てきた。
「何で泣いているんだい? 俺が気にしていないから、それでいいんだよ。それより、いい本を書いてくれよ、テリー」
そう言って、僕と握手を交わし、店の常連だという駅前のホットドック屋のオヤジとおしゃべりを始めた。
その姿を見やりながらも、改札までの僕の足取りはなかなか進まなかった。
The Chafford Arms
Fordcombe
Kent
01892-740267
Barrie Leppard
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