エールビールとは
イギリスのパブでは、絶対にそこでしか飲めないビールがある。
そのビールは、われわれ外国人が味わおうと思ったら、飛行機代を払って現地に行き、パブの敷居をまたがないとありつけない。これは決して誇張ではない。世界の輸入ビールが日本で当たり前に飲めるようになっている今日でさえ、日本中の、いや世界中のどこの国を探しても、「その」ビールは飲めない。
言わずと知れた「エール・ビール」である。もっと詳しく言えば「カスク・コンデションのもとにサーブされたイギリス産のエール・ビール」だ。
エールとは
ビールは、大別するとラガータイプとエールタイプに分けられる。日ごろわれわれが飲んでいるのはもちろんラガータイプ(詳しく言えばピルスナースタイル)だ。エールタイプのビールは、ボトル入りの輸入ビールや、日本の地ビールを飲んだことのある人なら分かるだろうが、色が胴色や茶色で、ホップやモルトのフレーバーがよく効いたものだ。
この2種は、醸造方法が違う。ラガーが低い温度で発酵させる(下面発酵)のに対し、エールは高い温度で発酵させる(上面発酵)ので、ホップやモルトの味わいが残りやすい。
世界的に見ると、もともとエールの醸造方法の方が主流だったのだが、大量生産に向き、保存がきくラガータイプが後から生まれた。(「ラガー」とはドイツ語で「貯蔵」の意味)これが今や世界の主流を占めるビールとなっていて、日本では、生まれてから死ぬまでラガータイプしか口にしない人が、少なくとも一昔前まではほとんどだった。
現在イギリスで飲めるエールビールのスタイルの二大潮流は、「ペール・エール」と「ブラウン・エール」だ。ペール・エールは、17世紀にバートン・オン・トレントで生まれた。なぜここだったのかというと、ホップの原産地であるウースター州に近かったことと、そこの硫酸カルシウムや硫酸マグネシウムなどを多く含む硬水だったからだ。ホップをよく利かせてあり、フレーバーが強いほか、いくぶん酸味や苦味,硫黄香も感じる。「ペール」と言っても、色が薄いわけではなく、次のブラウンエールなどに比較したら薄い、ということでこの名がついている。実際にはキャラメルのような茶色や胴色だ。アルコール度数は4.5%〜5.5%と幅がある。
もう一つの「ブラウン・エール」は、北部と南部では違うビールを指す。北部ではローストした麦芽の香ばしい風味が特徴で、ホップの香りと苦味が弱く、アルコール度数は4.0から5.5%だ。20世紀になって、当時は造船の街だったニューキャッスルで有名となり、スタイルとして定着した。このビールの特徴は、ペール・エールよりも濃い、やや赤みがかかった茶色と、独特のほんのりした甘味である。ペール・エールよりはホップの使用量が少なく、変わりにモルトでフレーバーを出している。
一方、南部のブラウン・エールと言ったら、麦芽の甘味がさらに強く、北部のと同じくホップの香りと苦味が弱いのが特徴で、アルコール度数は、3.2〜4%と北部よりも低い。これは工業都市、ウルバーハンプトンWolverhampton(Birminghamの北)で労働者に好まれた。口当たりがよくてが軽くて飲みやすかったので、仕事帰りに一杯ひっかけるのにちょうどよかったからだ。この南部のブラウンエールのカスクコンディションを、マイルド・エールと呼んでいるのだ。
これらのビールは日本でも飲める。ボトル入りの「バス・ペール・エール」や「ニュー・キャッスル・ブラウン・エール」が手に入る。だが、理由は後で述べるが、ボトルに入っている時点で、本場のパブでの味と決定的に異なっている。
カスク・コンデションとは
このほか、エールタイプのビールが作られている国の代表としては、イギリスの他にはベルギーとドイツ、そしてアメリカがあるが、これらの国で、エールタイプのビールは確かに飲める。だが、やはりイギリスでしか飲めないエール・ビールというのが存在する。
問題は、「飲むときのコンディション」なのだ。
イギリス独特の「カスクコンディション」(樽内熟成)という方法のことだ。
工場で醸造されたビールは、酵母をろ過したり、殺菌処理をされることなく、そのままパブに運ばれる。パブで、さらに酵母とプライミングシュガーとアイシングラス(チョウザメの胃)が加えられ、さらに発酵が促進される。七日から十日のちにセラーマン(ビールの熟成度合いを見る専門職で、パブリカンが兼ねることもある)が、飲み頃かどうかを判断し、「明日が一番うまい」となった日の夜で、ポンプにつなげられ、翌日から客の口に入る、というわけだ。ポンプは、昔の日本の井戸と同じ方式で、圧力によってカウンターに押し出されるという仕組みだ。
ボトルに入れる場合は、炭酸ガスを加え、保存性を良くするため、アルコール度数も若干上げる。だからボトルに入ったエールビールは、本場のものとは明らかに違うのだ。
イギリス以外で、この方式でビールを飲む国はない。つまり、他のエール産国では、ボトルで飲むのが一般的だ。
このように、エール・ビールをカスク・コンディションのもとに飲める場所、といったら、イギリスの、しかもパブしかないのである。実にイギリスのエールビールの
80%が、パブ内で消費される。ちなみに、このカスク・コンデションとボトルとの中間に位置するのが、ケグ方式と呼ばれるものだ。酵母を取り除き、殺菌処理をしたビールが、樽で出荷される。カスクコンディションのビールと同じようにセラーに保存されるのだが、注入のときに炭酸ガスと窒素ガスの混合ガスが(
3対7の割合)混入される。ガスの圧力でカウンターまで押し出されると同時に、ビール内にもそれが溶け出し、独特のクリーミーな泡になる。あのギネス・ビールはこの方法でしか飲まれていない。こういったケグ方式のビールはSmoothflowとも呼ばれ、キャフリーズなどのアイルランド産のもの
の他にも、英国内でも数多く作られている。リアル・エールに比べ、冷やして飲むのが通常で、ラガーのような喉ごしのよさとエールビールの味わいを持っているため、最近人気を集めている。
ケグビールはアメリカで生まれたとされているが、イギリスでも大いに発展した。
1936年にサリー州のワットニーというビール会社が作り始めた。別の工場で、アメリカの駐在軍が、泡の少ないカスク・ビールを嫌い、祖国のものに近い、もっと泡立ちのよいビールを、工場に命じて作らせたという話も残っている。1959年にはたった1%のシェアだったが、1976年には63%にまで上がった。
このケグタイプのエールビールは、ギネスを始めとして、日本でも飲むことができる。ところがカスクタイプとなると、日本ではこの方式でビールが飲める場所はない。つまり、
現地に行って、パブのカウンターの前までいかないと、飲めないのだ。
カスクの魅力
カスク・コンデションのエール・ビールの魅力は何か。なんといっても発酵が続いている「生きた」ビールであるがゆえ、苦味や甘味などのフレーバーが効いている。余計な泡がない分、ビールそのもののホップやモルトの匂いを感じることができる。
イギリスのパブでエールを注文したら、ケグタイプのビールの独特の泡にめぐり合った、という人も多いだろう。あれは醸造過程ではなく、飲む段階で注入されたものなのだ。僕も最初にあれに出会ったときは、感激したのだが、泡があまりないかわりに、ビールそのものの香りが楽しめるカスクのビールの存在を知ってからは、ケグタイプのビールを敬遠するようになった。
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