イギリスは宿屋、アイルランドは雑貨屋
〜パブリック・ハウスの発祥と歴史、パブ・サイン、パブの構造〜
日本で、全国どこに行っても、つまり都会でも田舎でも目にすることができる看板とは、なんだろうか。コンビニエンスストアくらいしか思いつかない。
これが、イギリス、アイルランドとなると、答えは明白だ。「パブ」である。喉が乾いた、腹が減った、トイレに行きたい、道を聞きたい、ボーっとしたい…あらゆるニーズを満たしてくれる万能のこの店、どんな都会でも田舎でも、必ずある。なんと言ってもこの両国では、小学校と、教会と、パブさえあれば街ができると言われている。
ヨーロッパやアメリカの街も、これと似てはいる。さしずめ、カフェがその役目を果たすのだろうが、アルコールを給するか否かが決定的に違う。
このように、パブは、イギリス、アイルランドのみで発展した、独特の店だ。他国にはなく、これらの国にだけ存在するのには、それ相応の根強い歴史的背景がある。詳細に説明されている著作も多いので、その繰り返しは避け、概要のみを述べるにとどめようと思う。
イギリスでは宿屋、食堂、居酒屋が統合した
「パブ」という略称が文献上に現れたのは、意外と新しく、今から140年ほど前、1868年だ。だがもちろん、それ以前に、「パブリック・ハウス」(公共の家)なる機能を果たす施設は存在した。一般的に、旅人の宿屋「イン」、食事の場「タヴァン」、アルコールを給する「エールハウス」なるものが、別々の形で発展し、やがて互いが重複した機能を持つようになったとされている。たとえばタヴァンでも酒を出したし、エールハウスでも旅人が泊まれた、といった具合だ。これがだいたい11世紀から13世紀、1066年のノルマン・コンクェスト後のこと。とくに、インは13世紀以後、旅人が多くなって発展を遂げた。現在「ザ・レイルウェイ・タヴァーン」だとか、「ザ・スワン・イン」などの名が残っているのは、その名残である。実際には、「イン」と名のつくところでも、宿泊施設をやっていなかったり、逆に、名称には表れていなくても宿泊できる、など「看板に偽りあり」の店が多い。創業当時はやっていても、オーナーが変われば業態も変わってくるというわけだ。
「パブ」はこういった別々の起源から発展しながら、公共の家として、18世紀には集会所、結婚式場、ときには政治活動の拠点、選挙運動の本部などにも利用されてきた。闘鶏やボクシング、演劇、そしてパブリカン主宰のサッカーやクリケット大会も行われ、市民のレクリエーション施設の機能も持つようになる。また、職業あっせん所、給料支払い所にも利用された。
イギリスが「世界の工場」と称せられるまでに発展したヴィクトリア女王の時代(1837〜1901年)に、パブの姿は変貌を遂げる。それまでパブで果たされていたさまざまな社会的機能が、次第に焼失していった。人々の生活が豊かになったため、上流階級の社交場としてのクラブ、ホテル、レストラン、カフェなどがそれぞれ独自の形で発展したために、パブは単に「居酒屋」の機能だけを持つようになった。
建築様式もこの時代に変化し、豪華な家具調度類を施し、個室も含め、部屋を細分化する、と言ったようないわゆる「ヴィクトリアン」調の建物となっていった。これは世界に向けて発展を遂げた大英帝国の当時の風潮と、人々の身分の細分化が進んだことに起因する。
今でも見られるきらびやかな装飾のパブは、この時代に生まれ、隣国アイルランドにもその影響を与えた。
このころ、ジンとビールの消費量が著しく伸びた。急激な社会変化に対する人々のストレスもあったのだろう。パブよりももっと大きくて、パブとは異なる飲み屋、ジンとビールを大量に給するきらびやかな「ジン・パレス」も出現した。
こうした他の施設の出現や、女王が推進した1830年からの禁酒運動の高まりもあり、「パブ」の業態は縮小し、現在の「居酒屋」的要素だけを残すようになったのである。「公共の家」とは言いながらも、実際にはアルコールを給することしかしていないのは、そういった訳なのだ。
だが、今でも「パブリック・ハウス」の機能を失っていないパブが多いことも事実だ。現に今でも地方のパブに行くと、クリケットグラウンドが併設されていたり、市民の情報交換の場として掲示板があったり、ファンクションルームなる多機能集会室がある。市政に参加したり、クリケット大会、チャリティーイベントなどを主宰するパブリカンも多い。昔ながらのパブリックハウスの面影は、まだまだ見て取ることができる。
家庭のビール、宿屋、雑貨屋、が発展したアイルランドのパブ
アイルランドで、「パブ」が文献上で表れたのが、1688年とされている。ピューリタン革命ののちに、カトリックを弾圧したクロムウェルに対抗すべく、密会を開くのに好都合だったらしい。
アイルランドは、隣国イギリスと同じく、もともと各家庭でビールが作られていて、やがて、よいビールを造る家にライセンスを与え、販売を許可したのが、パブの発祥と言われている。その一方で、宿屋からパブへと発展した形もあるようだ。。ご存知の通り、両国は支配、併合などの歴史を繰り返してきたから、パブリックハウスの形態も、相互の影響を少なからず受けている。
ただイギリスと決定的に違うのは、雑貨屋がアルコールを給するようになり、パブとなったケースも多く、今でもその業態を続けているところが数多く残されていることだ。雑貨屋だけでなく、工芸店、馬具や靴の販売・修理店、肥料や資料の販売店、ガソリンスタンド、はたまた鍵修理店まで、いわゆる「生活必需品」を扱う店がパブも兼業している、という形である。ちなみにギネス社は、現在のアイリシュパブを、次のように5つに分類している。
■カントリーコテージパブ…いわゆる地方のローカルパブ
■トラデショナルパブショップ…雑貨屋もかねているパブ
■ヴィクトリアンパブ…ダブリンに多い、ヴィクトリアン様式のパブ
■ブリューワリーパブ…ビール工場に併設しているパブ
■ゲーリックパブ…ケルト音楽ありの素朴なパブ
この分類で言うと、今述べたように、「トラデショナルパブ」の形だけでもさまざまあることになる。
ところで、アイルランドは人口約350万人の中に、パブが約1万軒あり、350人に一軒の計算だ。これに対してイギリスは人口約600万人の中に、6万1000軒だから、100人に1軒。数としては、イギリスの方が多いのだが、どうも私にはそうは思えない。人口1000人クラスの村では、イギリスでは2,3軒のパブしかないのに対し、アイルランドでは5,6軒もある。これは、アイルランドはニュースエージェントやレストランなどの店が極端に少なく、あっても午後5時には閉店してしまうので、それ以降はいきおいパブに頼ることになるからだ。
アイルランドは、チェコ人に続いて、世界で二番目にビール消費量が多い国だ。(ちなみに日本人の約3倍)これに対して、イギリスは世界で7位(日本の約2倍、いずれも99年キリン調べ)と大きく差があるのに、パブの数はアイルランドのほうが少ない、というのはいったいどういうことなのか。
現に、後でも紹介するが、アイルランドのとある小さな村のメインストリートには、実に5軒のパブが、時には隣りあって乱立していた。これでもそれぞれが十分にやっていけるほどのアルコールと雑貨類の需要があるということだ。
看板で死人が出た!?
先ほど述べたように、パブがまだ「イン」だったころ、「ブッシュ」という、長いさおの先に小枝を房状にしてつけたものを店先につきだし、目印としていた。日本での造酒屋の「杉玉」とよくにている点が興味深い。
しかし、これでは各店の個性が出ないというわけで、1393年、リチャード二世の命によって、旅宿に看板を掲げることが義務化された。当時は識字率が悪かったので、屋号だけでなく、それを良く表す絵も描かれた。これが今日の「パブ・サイン」の原型だ。のちに、大きく作りすぎた看板によって通行の妨げとなったり、時には風で落ちて死人が出るということがあってから、現在のようなサイズに統一されている。
現在は1万5000種くらいの屋号の種類があり、一番多いのは「King'S Arms(王様の紋章)などの王家にちなんだものだ。ほかには「ネルソン提督」などの有名人、「レッド・ライオン」(この名のパブが一番多い)などの動物、「ローズ」などの植物にちなんだものなどがある。
パブの構造
ヴィクトリア調からの伝統的なパブに話を絞ると、「パブリック・バー」「ラウンジ・バー」の2つの部屋に分かれている。時にはこれに「スナッグ」という個室が加わる。かつて、前者は労働者が仕事帰りに一杯やるところ、後者は上流階級がゆっくり食事を楽しむためのところで、装飾からして違う。「パブリック・バー」は木の床で、椅子、机も簡素なもの、「ラウンジ・バー」はじゅうたんじきで、ソファーに座る。
また、どのパブにも、地下、あるいは半地下に「セラー」(貯酒室)があり、仕入れたビールはそこへ入れられ、温度管理をされている。ビールだけでなく、ワイン、ソフトドリンク、などの倉庫でもある。リアル・エールの場合、ここからハンドポンプによってカウンターにサーブされる。ケッグビアの場合はここで混合ガスが加えられる。(後述)
※ここに、一般的なパブの間取り図(俯瞰)と、セラーを含んだ構造図を入れます
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