「2人で産む」ために
僕がした少しのこと
〜ダメダメなパパの出産奮闘記〜
妻のお腹に自分の子ができた……
それは、「結婚」よりも、「マンション購入」よりも、衝撃でした。
将来、娘に見せることも考えて、まとめてみました。
特にまだ産んだことのない方へ。
これを読んで少しでも恐怖感を消して、そして同じ喜びを味わってほしいです。
「子ども作ろうよ」
妻は、結婚した当初から、「子どもはいらない」と言っていた。妹にも、「あんたは、ラッキーだね、私はあんたの子をかわいがるんだから」とつねづね言っていたらしい。自分の持病のための薬の影響で、奇形児が生まれる可能性が少し高かったこともある。
だが、結婚して1年。32歳を迎え、子どもがいる友達を数え切れないほど持って、それに影響され・・・というわけでもないのだが、2004年の秋、「つくるのなら今がラストチャンス」と本能的に感じたのか。毎日のようにクレームに謝らなくちゃいけないハケンの仕事に嫌気がさしたのか、「ねぇ、やっぱり子ども欲しいよね」と言い出したのは、妻だった気がする。
準備として、主治医と相談しながら、数ヶ月かけて妻の薬の量を最小限に減らし、リスクを少しでも減らした。それが、新しい生命をつくるものとして、精一杯の誠意だと思ったからだ。「俺たち二人は世界一ハッピーな夫婦なんだ。こんな二人に生まれてくる子なんだから、何でもないに決まっている」そう言い聞かせていて、さらに数ヶ月・・・2004年の年末、「できたかも」のときはお互い飛び上がって喜んだ。
妊娠中に引越、夫の転職
けれど、妊娠生活は、平坦ではなかった。妊娠が発覚する前、2004年の秋頃から、中古マンション購入に向けて情報を集めていた。資金を貯めるため、妻の実家に居候していたのだが、妊娠が分かってからは、ますます物件探しにラストスパートをかけた。何となく、さすがに子育ては自分たちの城でしたかったからだ。妊娠初期は大事をとらなくちゃいけないし、真冬だったので、内見は僕一人で行ったが、決めようとしたところには、妻も4ヶ月のお腹をかかえて二人で行った。
2005年4月、妊娠5ヶ月で引越し、そして6月に僕の転職、と転機が続いたばかりでなく、9ヶ月に入った頃は、体重が16キロも増えたこともあってか(普通は重くて12キロくらい)、足、腰が本当につらそうで、僕が毎日マッサージしていた。
6月に転職したとき、シフトの都合上、9月までの休日を決める必要があり、予定日の8月21日から少し早い、一般的なお盆休みの8月10〜15日としておいた。少しでも早くこの妊娠生活を終わらせてあげたい、という願いもあって。
名前はファミレスで5分で決定!
そんなバタバタの中、名前を決める時間も余裕もなかった。引越しして2ヶ月くらいたち、ようやく生活が落ち着いた頃、近所の「藍屋」で食事をした。食べ終わって、
「そろそろ名前決める?」
僕は、名前を決めるときは、名付け本とか姓名判断の本をいっさい見ないと決めていた。自分が最初にあげる子どもへのプレゼント、なんでそんなものに頼らなくちゃいけないんだ?
「俺は、『葉』って字をつけたいね」
前から思っていたことを口にした。二人の結婚式のとき、シンボルマークとして、手作り招待状などに四つ葉のクローバーを使ったからだ。
「私は、『杏』を使いたいな」
妻は、赤毛のアンに影響されて、子どもにはこの字をつけると昔から決めていたという。
テーブルにあった「お客様アンケート」の裏に、いろいろ書き並べて5分、「お、『杏葉』で『きょうは』って読めるじゃん!」「いいね、その響き」そんな感じで、デザートが来る前に決まった。親二人が心から気に入っている字を一文字ずつあげた、最高のプレゼントになった。
それまでは仮の名前「まるちゃん」で呼んでいたが、それからはお腹にその名前で呼びかけ始めた。
「杏ちゃん、8月10日に産まれてくるんだよ〜」
しかし、7月まではいろいろな予定を入れてしまい、せっかくの週末なのに、あまり家にいない、ダメなパパだった。
8月になってから、気持ちを入れ替え、「よし、このお産は二人で乗り越えよう。妻一人で産むんじゃなくて、二人で産むんだよ!」と、毎日マッサージや家事だけでなく、下のものを拾うの一つでもなるべくするようにした。
「破水ですね、今夜から入院になります」
「おしるし」が8月8日に。そして、僕の夏休み初日の8月10日。適度な運動が陣痛を招くと聞いて、妻は重い身体にムチ打って、「出かけよう」と提案。府中で、買い物を楽しんだ。帰ってきて、トイレに行き、「なんか、いつもよりも下り物が多いんだよね」僕は内心「気のせいだろう。何だかんだ言って、夏休み中には結局生まれないんじゃないか」と思っていたが、念のため病院へ電話。「一応、病院に来てみて下さい」と言われたときは、二人とも無駄足になるんじゃないかと思っていた。
午後10時、病院に着き、検査をし、破水だったことが発覚。「じゃ、ここに赤ちゃんの名前を書いてください」と書類を渡され、僕は、杏葉の漢字を間違えてもう1枚紙をもらうほどには動転していた。けれど、2人ともウキウキ気分。「杏ちゃんは、なんて親孝行なんだ! パパの夏休みの初日に破水、しかも最後のデートまでさせてくれた」
陣痛室は、カーテン1枚で仕切られていて、4人まで入れるようになっている。この夜は、満員御礼で、隣の人などは、ウンウンうなっている。妻も、MSIといって、赤ちゃんの心音と、ママの陣痛の強さを測る機械をつけ、検査。陣痛はほとんどなかった。写真やビデオを撮ったりして、ここまでは、完全にレジャー感覚。このあとの長い道のりなど、知るよしもなかった。陣痛はまだまだ弱いということで、僕はいったん帰ることにした。
これがMSI。右の波が陣痛の強さ、左が赤ちゃんの心音
おーい陣痛くん、やーい
翌朝、8月11日。8時に陣痛室へ。聞くと、なんと「昨日、一睡もできなかった」痛さのせいではない。隣りの人のうなり声だ。骨盤のレントゲン撮影を経て、再び10時からMSI。10時30分から陣痛促進剤を点滴開始。一応、お腹が張ってきた時間を記録するが、何度も張るものの、「痛い」という感じには程遠い。念のため、浣腸をすませたりして、「いつでもオッケー」状態なのだが、肝心の陣痛くんが来ない。隣りの「イタイ、イタイ」はどんどんエスカレートし、午後、分娩室に入っていった。確か夕方3時ごろには生まれていたと思う。昨晩9時に来たそうなので、18時間後、ということになる。これでも長いほうかもしれないが、妻のほうは、この日はとうとう「陣痛」らしきものは来なかった。子宮口は、最後の検診時と同じ3センチしか開いていない。(これが10センチにならないと赤ちゃんが通れない)「昨晩は、隣の人が気の毒だったけど、今はその痛さがうらやましい」という妻の言葉にはまったく同感。
緊急帝王切開の可能性も
高位破水と言って、羊膜の上のほうが破れたので、そんなに羊水は出ていない。赤ちゃんはまだ快適だから、出てこようとしていないのだ。しかし、破水すると、感染症が心配。明日一日待ってみて、それでも陣痛がこないようなら(妻のようなオーバーウエイトの妊婦は微弱陣痛といって陣痛がすごく弱い場合があるらしい)、緊急帝王切開もありうるとのこと。明日は、ダブルセットアップと言って、自然分娩と、帝王切開両方の準備をして臨むということになった。帝王切開になった場合の誓約書を書いたが、血栓症や感染症は●万人に1人です。などとわざわざ書いてあるではないか。できれば切らずに産んでほしい。
その夜は「メトロバルーン」という、子宮口に風船を入れて、それが膨らんで子宮口を膨らませ、同時に子宮を柔らかくする作用がある処置をして、寝た。僕は、本当は明日に備えて帰ったほうがいいのだが、「メトロ」の作用で、夜中に急に陣痛が始まる可能性もゼロではない。今晩中に陣痛が始まって、明け方にでも生まれて欲しい。そう願いながら病院のソファで仮眠した。明け方の4時、陣痛室へ様子を見に行くが、・・・妻はすやすや寝ていた。
昼寝もできるほど陣痛がこない
明けて8月12日。病院の冷房にやられた僕は、ズキズキする頭を抱えながら陣痛室へ。聞くと、寝ている間に風船が外れてしまったとのこと。それでも朝の検診では子宮口はだいぶ柔らかくなり、4センチに開いたらしい。7時30分からMSI開始。今日は、帝王切開に備えて、絶食なので、点滴で栄養剤を入れながらだから、腕には、2本のチューブが入っていることになる。見ていて、痛々しかった。でもそんなこと言うと、本人が余計に悲壮感漂わせてしまうので、僕はあえて平静を装った。やっぱり写真やビデオを撮ったり、他愛もない話をしたり、テレビを見たり……。はっきり言って、眠かったが、そんなこと言ってられない。寝不足に慣れている僕と違い、妻は寝不足を人一倍苦手としている。一昨日の夜一睡もできなかったのが、どれだけ苦しいか。だから、この日の午前中に30分だけウトウトできたのが、本当によかった。
リーサル・ウェポン投入!
昼寝までしてしまったことからも分かるとおり、陣痛は、昨日よりもむしろ弱くなってきた感じだった。足のツボを教えてもらって何度も押すが効果なし。自然分娩か帝王切開かの選択のリミットは夕方くらいまでとのこと。こうなったら、あらゆる手を尽くして、陣痛を強くしようと、業をにやした助産婦さんが、12時55分、乳首を何度も強くマッサージし始めた。妻は顔をしかめて耐えていた。しかしこれが功を奏し、徐々にではあるが、陣痛が強まってきた。分娩時に100必要だとしたら、午前中までは10もなかったのに、2〜30は出てきた感じだ。続いて13時25分、女医さんが来て、破膜。つまり子宮口のほうの羊膜を破って、羊水を出す。そうすると子宮の収縮が進みやすいのだという。それにプラス、子宮口をやわらげる注射を30分おきに4本打つ。賽は投げられた。
ちょうどお義母さんが来たので交代。地下の食堂で食事。結果的にここで休憩できたことが、僕にとってすごくよかった。あまり食欲はなかったが、来たる戦いに向けて、無理やりにラーメンをすすった。
まったりムードから急展開
陣痛室に戻ると、お昼までのまったりムードと打って違って、にわかに「陣痛ムード」に変わっていた。妻は「ウーン、ウーン」とうなり、それ以上は何も言葉にならない。お義母さんは、必死に腰をさすっている。お義母さんとチェンジし、腰をさすり始めるが、僕はすぐには「陣痛ムード」にはなれず、けっこうチンタラさすっていると、「ちがう、そこじゃない!!」と一喝された。妊娠中に、よく二人で、インターネット上の出産奮闘記などを読んでいたが、「陣痛室でダンナのさすりがあまりにも見当違いなので、殺してやろうと思いました」などとあったが、まさに、そんな状態。ああ妻、殺さないでくれよ〜。これでも一生懸命やっているんだからさ。
陣痛の強さは、40くらいにはなっているが、本人はそれ以上に痛そう。まさに、かつてのお隣さん状態がついにやってきた! 妻は、痛みで叫ぶというよりは、歯を食いしばって耐えている感じ。3分間隔くらいで強い痛みが来るそうだ。両親学級で習った「ヒッヒッフ〜」などをやる余裕もなかった。助産婦さんが「まだいきんじゃだめよ、フ〜、ウンッ、フ〜、ウンッよー」。助産婦さんが行ってしまってから、僕に「一緒にやってよッ」と叫ぶ妻。命が惜しい僕は、一緒に「フ〜、ウンッ、フ〜、ウンッ」を始めた。しばらくして、僕が洋服を着替えるため、お義母さんと交代し、戻ると、先生に「もう分娩室に入りましたよ」。あまりの急展開に、「そ、そうですかああーー??」
3回いきんだら、助産婦が交代!?
午後4時。手を消毒し、サンダルに履き替え、分娩台の横へ。「お茶とうちわはこれです。あとは励ましてあげてください。」そ、そんなん言われても……。分娩台の妻は、なんかお昼までの妻じゃなく、いっぱいいっぱいな感じだし……。最初の数回のいきみのときは、何が何だか覚えていない。きゅうすみたいなやつでお茶をあげたときも、うまくあげれず、こぼしてしまった。うちわで扇ぐのも忘れて、「もっとこの部屋、涼しくならないですか」と聞いてしまったり……。
そこへ、新しい助産婦さんが入ってきた。「時間になったので、交代します。●●と申します。」と、目に涙を浮かべている妻に挨拶をした。分娩の途中で担当が交代なんて……。そのとき、僕の中で「メトロバルーン」ならぬ「ダンナバルーン」がはじけた。「俺は2日前からずっと妻についているんだ。この子の気持ちは、この病院の誰よりも、俺が知っている!俺が守るぞ。妻一人じゃない、二人で産むんだ!」顔を寄せて、分娩室に入ってから一度も俺のことを見なかった妻の視界に無理やり入った。「もう少しだろ! 切らないで産むんだろ! 一緒にがんばろうぜ」
陣痛が来たら、「吸って〜、吐いて〜、吸って〜、吐いて〜、大きく吸って吸って〜、吐かずに止めていきむ〜〜〜、ちょっと息継ぎ、またいきむ〜〜」これをえんえんと繰り返す。僕がやったのは、このとき「吸って〜、吐いて〜」を言ってあげ、いきむときは「ん〜」と声を出してやること。さっき分娩室で、妻が「一緒に声出して」と言ったからだ。あとは助産婦さんの言葉を真似て「おへそを見て」「顔じゃなくて、おしりに力入れて」などと言っていた。やはりインターネットの出産体験記に「分娩室で、夫が『はい、いきんで〜』などと言っていたが、お前は助産婦か!」などというものがあったが、でも、この場では、やはり言いたくなってしまう。バレーボールの試合でも「がんばれ〜」と言うより、サーブのときに、「ソウレッ」と声を合わせてあげるほうが、選手もうれしいはずだ。
最後は2人とも涙ポロポロ
ほかには、なぜか分娩室にいる人がコロコロ交代するので、そのつど、「普段、腰痛持ちなんで、腰がつらいんです」などと、今までの経過を言ってやること。そういってやることで、妻も安心すると思ったからだ。また、助産婦さんたちが、何かの準備で妻の足下から一人もいなくなってしまうこともあった。そんなときは、二人で「ん〜〜」とやっていた。それはなんかちょっと笑えた。
午後5時をまわり、20回くらいいきんでも、1回の陣痛が短いためか、なかなか先に進まない。妻は「ダメ、もう産めない」と言い出す。僕も妻の体力のなさを考えると、途中で力尽きて帝王切開になるのかもしれない、と内心覚悟した。けれど、できれば、切らせたくなかった。もう一度言った。「切らないで産むんだろ! やるしかないよ」目に涙をいっぱい浮かべた妻は、少しだけど力強くうなづいた。
「このくらい時間がかかるものなんですか」「今、ちょうど夏休みなんで、毎日つきそえたんですよ」陣痛の合間に助産婦さんたちと話すことで、妻をリラックスさせようとした。そして、「合間はリラックスしよう」と腰をさすったり、手をさすったりしてあげた。
午後6時20分頃、助産婦さんが、妻の産道を消毒したときに、赤ちゃんの心音にも「ゴリゴリゴリ」と何かが当たっている音が混ざった。ほら、もうこの子は外界とつながり始めている! 6時30分頃、麻酔して、会陰切開をする。切られる瞬間僕の手をギュッと握ってきた。僕まで顔をしかめた。そして、ついに頭が出だす。けれど、妻のいきみは弱くなってきたので、掃除機のような吸引機で頭を引き出す。その機械は、5割くらい頭が出かかっている子を引っ張り出すものだと思っていたが、容赦なく産道に突っ込まれた。妻はこれがいちばん痛かったとのこと。しかも医師が新米のような人だったので、「先生、それはちょっと違います!」などと言っているのが聞こえる。おいおい。やがて「もう頭が出てきますよー」の声にあわせ、妻は最後の力をふりしぼっていきむ。僕はもうその頃は「ん〜〜」というのが涙声になっている。「とにかく、早く終わってくれ!」頭が出たあとは、後で聞くと赤ちゃんのへその緒が首に巻きついていたとのこと。早く出さねば、というので、助産婦さんが妻のお腹に乗っかってくるくらいの勢いで押す。「オギャー」という声とともに、杏葉はこの世に生を受けた。
妻は、後半はすべてが痛く、涙ポロポロ。僕は、「よかった……」と涙ポロポロ。助産婦さんたちに「あびがどうござびばじだ」。
すべての母親に敬意を表す
後産と縫合のときは、分娩室から出され、ロビーで家族に電話を入れた。足元はフラフラ、寝不足で、頭はズキズキ。今まで張り詰めていたものが、一気にゆるんだのだろう。しばらくして、分娩室に戻ると、妻が休んでいた。最後に身体が出るときに、少し肛門のあたりまで裂けてしまったので、人よりは多く縫ったとのこと。麻酔が切れたら、傷んでくるかもしれないが、陣痛に比べたら……。
それにしても出産ってすごい。母親ってすごい。今回、産道を通って、外に出てきた杏葉もがんばった。横で励ました僕もがんばった。でも間違いなく、いちばんがんばったのは、妻だ。この世の、すべての子どもを産んだ女性に、敬意を表したい気分だった。でも、妻が「二人で産んだね」と言ってくれたことに、またホロっときた。
それにしても……もし今が50年前だったら、杏葉は無事に生まれていたのだろうか、と思ってしまう。今回の一連の出産は、現代医学の恩恵をフルに受けたからだ。最初に破水と分かったこと、MSIでずっと母子を監視していたこと、子宮口を膨らませた風船、陣痛促進剤、絶食中の点滴、頭の吸引。そして、緊急帝王切開までも視野に入れて、自然分娩をあらゆる手を尽くしてサポートしてくださった助産婦さんたち。この出産の少し前に、外国の16歳の子が、トイレで1人で出産した、なんてニュースがあったが、杏葉はそういった周りの助けがなかったら、無事に生まれなかったかもしれない。
五体満足か、なんて別に聞かなかった。妻が無事で、杏葉が無事に生まれてきてくれた。それだけで、十分だった。
生まれてから3時間後。杏葉も大変だった!?
追記
生まれてから夜泣きに悩まされ、これをアップしたのは、生後2ヶ月になってから。今、これを改めて読むと、杏葉の泣き声も心地よく感じる。これからどう育てていくにしても、このときの気持ちだけは忘れないようにしようと思う。
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