エッセイ
バーマン初体験は、
意外な結末が待っていた
●夢にまで見た、バーマン
「どうだ? 今晩うちで働いてみないか?」
ガイに言われたときは、一瞬耳を疑った。前出のハーフムーンでの出来事だ。今夜はここに泊まることになっていたし、僕も取りたててやることもない。一も二もなく返事をした。
「もちろん! やらせてよ! こきつかってよ!」
パブのカウンターで働く…僕がここ数年、ずっと夢見てきたことだ。以前のイギリス駐在から帰国して、日本でフリーライターとして再出発しようとしていたとき、東京のパブのバーマンの仕事も探していたほど。
パブにとりつかれている自分が、もっとよくパブを知るためには、パブで働くことが一番だ。そう思って探していたのだが、いろいろとタイミングが合わず、できずじまいだった。それが、こんな本場で実現しようとは!
しかも本物のリアル・エールの長いポンプだ。こりゃえらいこっちゃ。
ガイは、バーマンのロブを呼ぶ。
「おーい、ロブ、このテツヤが今日はおまえの部下だ。好きに使っていいよ」
明らかに俺よりも年下のロブは、突然の珍客にちょっと驚いた様子だった。
さて、ガイに案内されるまま二階の部屋に荷物を置き、着替えようと思ってはたと困った。僕が今着られる最高級の服は、小汚いTシャツ!
「そんなのどうだっていいじゃん」と思われるかもしれないが、僕にとっては、重大問題なのだ。
僕の中のバーマン像は、白いシャツに黒い超ネクタイ、黒いベスト、というもので、「どう? お客さん、最近」など斜に構えて問う、ニヒルなキャラクターでなくてはならない。現にイギリスのパブでも、高級感を出しているところはバーマンの身なりもきちんとしている。ましてや今日は僕のデビュー戦(って帰国してから転職するつもりか?)だ。
部屋で、ひとしきり悩んだ。アホみたいと思うだろうが、ほんとに悩んだから、しようがないでしょ?
でああ、こんなことなら、フォーマルを一式持ってくるんだった。でもまさかこんなこと予測できるわけない。
あきらめて、Tシャツの中でもマシな奴を選んで、階下に再び下りる。ロブに「よろしく。ボス」とおどけたときから、僕はそこのバーマンとなった。数時間後の悲劇のことなど、まだ知る由もない。
▲私の「ボス」は18歳、でもバーマン歴3年の先輩
●あこがれのハンドポンプを引く!
その日は週末だったので、客足は、夕方のその時間から、増えてきていた。ハイキングの途中休んでいく人、地元の若者たち、が次々と来る時間帯だった。ただ、けっこうその日は朝から雨が断続的に降っているので、いつもの週末よりは混まないだろう、というのがロブの見方だった。
カウンターに入り、ロブに言われるまま、ドリンクやフードの値段を覚える。ソフトドリンクの作り方を教わる。「レモネードはここの「L」のボタンを押して…」ここですでにもうパニック!
覚えられるわけない!
カウンターやお金のやり取りは基本的には彼に任せることにし、僕はキッチンに徹することになった。
キッチンは、一般家庭よりやや広いくらいの広さと設備で、シンクと皿の戸棚、ガスコンロ、そして奥にはなんと大型の冷凍庫が4
台もあった。開けると、チップスや肉などの冷凍食品がずらりと並んでいる。
▲ここには映ってないが、巨大な冷凍庫が3つもあったキッチン。
左には電子レンジが
「これって…?」
ここでは、すべて冷凍食品を調理しているだけなのだ。昼間に、ここでランチを取ったが、うまいうまいさすが「パブ飯(ルビ:めし)」、と感動していた自分って一体…。確かにパブ飯は冷凍食品が多いと聞いたことはあるけど、まさかここまでとは思わなかった。
冷凍食品ショックから立ち直り、再びカウンターに行く。
「混んでくる前に、教えてほしいことがあるんだけど」
僕はそう言って、何を置いても、絶対にやっておきたいこと…エールビールの注ぎ方をロブに教えてもらう。この長いポンプでビールを注ぐ! こんな幸運な目にあったことのある日本人はそうはいないはずだ。
先が湾曲した長い蛇口に添って、パイントグラスを傾けて構える。ポンプを引いて、グラスのふちに伝えながら、半分くらいまでビールを注ぐ。ここで泡が鎮まるのを一分くらい待ち、(ギネスビールの場合は、泡立ちがもっといいので2,3分待つ)今度はグラスをまっすぐに構え、蛇口を液面につけながら、静かに残りの分を注ぐ。あまり泡だらけだと客にいやな顔をされるそうだ。
このポンプが重い!
おっかなびっくりやる僕を、子どもでも見るように見守っていたロブは、「うまいじゃないか」と誉めてくれた。だが、僕が注いだビールは、ロブのそれとは明らかに違い、余計に泡立ってしまっている。それでも、2,3回目にはコツを飲み込み、うまく注げるようになった。調子に乗って、2,3人の客にサーブする。
当面、フードの注文はなさそうだ。僕は早くも自分で注いだビールをぐびぐびやりながら(このずうずうしさが僕の真骨頂)、ロブとおしゃべりを始める。
聞くと、彼はまだ18歳! おいおい、そんなのが今日の俺のボスなのかよ。でも、15のときからここで働いている彼は、文句なしにここでは僕より大先輩だ。
「最初はキッチンしかやらせてもらえなかったよ。もちろん法的にはカウンターで働いてもいいんだけど、ガイがそれを許さなかった。たとえば18歳を超えていない17歳とかの客にビールを注文されても、当時の僕じゃ、断れなかっただろうからね」
カウンター業務を許されるようになったのは、18になってからだという。どうもイギリスでは酒やタバコと同じく、18歳というのが一つの区切りになるらしい。
この仕事は好きか? と聞くと、「その答えはイエス・アンド・ノーだね」と返ってきた。
「もちろん、他のどの仕事よりも楽しいよ。友達が来れば、仕事中でもダベりながら気楽にできるしね。でもたとえ友達が相手でもしんどいときもある。嫌いな奴とか、先輩が来たときさ」
どんないやなやつが来ても、一応は、バーマンとして振舞わなくてはならない。そのほか、中高年の退屈なお喋りにつきあわされるのも、けっこうしんどいという。若いわりには、けっこう苦労してるんだね、あんたも。
そんなことを話しているうちに、忙しい時間帯にあわせ、もう一人の若手従業員、シンディがやってきた。ロブと同い年くらいのひょうひょうとした女の子だ。来るなり、サンドイッチとコークを作り、地元のタブロイド誌を広げ始めた。度胸のすわった子だ。まさにパブで働くのにぴったりだ。ガイの目は正しい。
●皿に泡が残っているんだけど…
さて、最初のフードの注文は、ささみのフライのレシピとスパイシーメキシカンピラフ。ロブに案内されるまま、キッチンの奥の冷凍庫をあさる。ビニールからささみのフライとチップスのもと(傍点)を取りだし、熱した油で揚げる。その間、皿にサラダを並べる。サラダといっても昨日から入っていたような、しなびたきゅうりとレタスとトマトをタッパーから取り出し適当に並べるだけだ。その間、ロブは手慣れた手つきで、ピラフをチンしていた。
僕はこのあと生まれて初めての動作をする。つまり皿を持って客のところに行き、それを置いてくる、というものだ。普段歩くパブの店内とは全く違っていた。皿を落としちゃいけない、にこっとしてなくちゃいけない…いろんな事を考えたのは無駄だったようで、そこの客と立話を20分位する。ハイキング帰りのその客は、自分のカメラを自慢気に見せてくれた。
そんなこんなで2時間ほど過ぎていった。客も雨のわりにはけっこう来ていて、50人は入る店内は、半分以上埋まってきた。僕はその間、働きに働いた。普段の日本の仕事よりも3倍くらい真剣に。注文を聞き、紙に書き、キッチンのボードに張り付け、ロブに教わりながら作り、それを出しに行き、時にはカウンターでビールを注ぎ、おっかなびっくりカクテルを作り…何でもロブに教わらないとできないので、はっきりいって邪魔物以外の何物でもないと思うが、パブで働くのが念願だった、という僕を、ロブはよく面倒を見てくれた。やっぱり君は大先輩だよ。人間もできてる。
一つ、びっくりしたことがある。お皿を洗っていたときのことだ。汚れた皿を洗剤を溶かしたお湯にしばらくつけておく。ここまでは日本のやり方と変わらない。問題はここから先だ。ロブが手が空いたので、手伝ってくれることになった。僕はお湯から皿を取りだし、スポンジで汚れを取り、さあ、洗剤をゆすごうとしたとき、ロブがひょいと手を伸ばしてその皿を奪い、拭き始めた。きょとんとしている僕に対し、ロブはすまして言う。
「僕が拭いていくから、テツヤは洗っていってよ」
いや、それは分かっているけど、まだその皿、ゆすいでないんだけど…。僕はそのとき、イギリス流の皿の洗い方を思い出した。汚れは落とすが、洗剤はゆすがず、乾かしておくだけなのだ。駐在時代のホームステイ先は、どこもそのやり方だった。そうか、今までそういう皿でパブ飯を食べていたのか…。そんな僕の顔のタテ線も一向に気にかけず、ロブは、まだ泡が残っている皿を僕の手からどんどん奪い取り、拭いていく。お湯に浮かぶ泡のようにもやもやしたものが、僕の胸に広がっていった。
「パブ飯、体によくないかも…」
僕は、時間の許す限り、カウンターに立った。だって、ビールをたくさん注ぎたいんだもの!
7,8人座れるカウンターはすでに埋まっていて、テーブルに座っている客は、彼らの肩越しに、こちらに注文をする。僕は、誰の注文が先かをかぎ分け、「ちょっと待って! あっちの客のほうが先だから」などと一人前に仕切ったりもする。
まさにこれが僕が味わいたかった瞬間なのだ。カウンターでビールを買うとき、なかなか買えないでイライラすることがある。ああいう時って、カウンターの中から見て誰が先に待っているか分かっているのかな、といつも思っていた。今こうして逆の立場になってみて思う。
そんなの見てる余裕ねーよ。
ここは、そんなにカウンター内に人が殺到する場所じゃないから、まだ順番が分かる。だが、これが都会のパブみたいに人が鈴なりに群がってくるようなカウンターだったら、僕じゃとても分からないだろう。相当の慣れが必要だ。それをちゃんと分かっているバーマンたちはさすがプロだ。
それにしても、不思議なのは客があまり僕の存在を気にかけないことだ。確かにロンドンのパブだと中国系のバーマンがいることもある。ただしここは一見さんも多いとはいえ、地元客もかなり来る店である。イギリス人は、細かいことはけっこう気にしないのか? ま、要は楽しく飲めりゃーいいんだろうね、サーブするのが誰でも。
さてこういうふうに目を白黒させながら、働き、飲み、客やロブとおしゃべりをしていたが、舞台の緞帳がさっと下りるように、悲劇は突然起こった。
●突然の停電でも、動揺しないイギリス人
「ボンッ」
何かの鈍い音とともに、店内が真っ暗になったのだ。僕は、最初ブレーカーか何かが落ちたのかと思った。しかし、ロブや客は、「停電だ」と肩をすくめている。ロブによると、連日の雨のせいだろうという。一年に1度くらい、こういうことがあるそうだ。
けっこううろたえている僕を尻目に、ロブとシンディはろうそくに火を灯し、客に配り始めた。僕も慌ててそれを手伝う。客は明らかに「運が悪いな、こんな日にわざわざ外出するなんて」とうんざりした様子を見せている。
ロブがあちこちに電話しているうちに、復旧には、かなりの時間がかかるという情報を手にした。僕は、イギリスのことだから下手をすると一晩中こうかもしれない、と思った。
ここで僕は、イギリス人の「有事の時の対処法」を目の当たりにすることになる。一言でいえば「無関心」である。
「いつ頃復旧するんだろう?」「店はどうするの、もう閉めるの?」普通なら、そういうことをバーマンに聞いてもいいと思うが、誰一人としてそうはしないのだ。みな頭を抱えたり、ため息をついたり、犬とじゃれていたり、と好き勝手にやっている。とあるカップルなどはろうそくでムーディートークをかましていた。ロブも、客に特に何もアナウンスせず、煙草を吸って一息ついている。復旧に時間がかかりそうだということすら言わない。
こういう事態に慣れていると言えばそれまでだが、個人主義の国なのだということを今更ながらに感じた一幕だった。
さてポツリポツリと客が帰り出したとき、折りしも日本人の留学生の女の子2人が入ってきた。聞くと、ここから来るまで30分くらいのブライトンに留学中で、ホストマザーに連れられての初めてのパブ訪問だという。「うわー、ろうそくなんて、ロマンティックですねえ。パブってこんなところだったんですかあ」「い、いや、これはね…」
ふう。もし僕がそのとき説明しなかったら、彼女たちの中でのパブ像はひどくゆがんでしまっていた。危ないとこだったよ。
ところで、こうなってみると、パブの中では気づかないところで電気が使われていたのだな、と気づく。ハンドポンプ式のビールは飲めるが、電動式のポンプでサーブするギネスやラガーは注げなくなる。冷蔵庫は温まってくるのでボトルものや氷もだめになる。冷凍食品然り。調理もできない。皿もお湯が出ないので思うように洗えない。パイントグラスを洗う機械も使えない。今日はもう開店休業だ。
客がカウンター周りの常連だけになった。みなろうそくの光の中で、ぬるいビールを飲みながら、明るくくったくなく話している。むしろこの事態を楽しんでいるように見えた。僕もその輪の中に入り、「いい思い出ができたよ」と笑う。心地よい疲れの中で、揺れるろうそくの光を見ながら、村の若者たちと話したこの夜のことはずっと忘れないだろう、と思った。
Home