Barley Mow(Derbyshire)
CAMRAに認定され、数々の本にも紹介されている、通だけが知る古きパブ。ハンドポンプを通さない究極のエールビールを、室温で味わう、というエール好きにはたまらないこだわりぶりだ。
■他の写真は,一番下にまとめてあります.
▲360年前の、ヤコブ様式
■田舎を走れば、自然にパブにたどりつく■
「うわ、これがパブなの?」
これが一番最初に「バーリー・モウ」の写真を目にしたときの印象だ。お化け屋敷、という表現が幼稚すぎるなら、とにかくひどく古い石造りの建物で、壁はなぜだかわからないが、不規則に黒く変色していて、前庭には、高い木が生い茂っている。どんなに晴れた日にここの写真を撮っても、これ以上には鮮やかな色にはならないだろうな、と思わせた。
「とっておきのカントリーパブ」的な本のあちこちで紹介されているこのパブ。いったいどんな人が経営しているのだろう。絶対に、若者ではなく、頑固者のおじいちゃんに違いない。わくわくしながら、ダービー州のカークアイルトンという小さな村に向かった。
ピーク・ディストリクト(丘陵地方)にほど近いそのあたりは、なだらかな丘陵が多いので、車は時には上り、時には下る。その間に、筒状に固めた干草や、羊や牛が草を食んでいる光景が次から次へと目に飛び込んでくる。その典型的なイギリスの田園地帯を進むと、丘陵にへばりつくように家が固まっている集落があり、そこが「カーク・アイルトン」なのだった。
ローカル・パブを探すのに地図はいらない。地元の人に聞けばよい。これはあとで分かったことだが、人口500人足らずのこの村で、「バーリー・モウ」は唯一のパブであり、唯一のB&Bだ。車の窓から声をかけたその人も、「なーんだ、メアリーのところね。この道をまっすぐよ」
ちなみに、これはアイルランドでもそうだったが、標識に従って走っていけば、自然にその村のメインストリートに入る。パブは必ずメインストリートにあるから、ヴィレッジ・パブを探すのに住所も地図もいらないわけだ。
言われたとおりにまっすぐ進むと、こつ然と右手に「お化け屋敷」が現れた。車を降りるのも忘れ、しばらく運転席から眺める。
「すごい! 写真以上だ」
この村のどの建物よりも古く、さながら「主」という感じ。後で聞くと、1683年、実に360年も前の、ヤコブ様式の建物だ。
前庭の門は閉ざされていて、左手の勝手口のような入口から中に入ると、その部屋はせいぜい二人しか建てないような
小さなカウンターのあるバーで、古ぼけた椅子とテーブルが4組ほど並んでいる。ある椅子などは、布が擦り切れて、スポンジ状のものが見えている。左手には本当の火がくべられている暖炉。音楽は一切ない。
客はまだ2,3人しかおらず、まっすぐカウンターに向かった僕は、さらに驚いた。カウンターにハンドポンプがないのだ。そのかわり、後ろに樽が4つほど並べられていた。しかも、冷却カバーも何もかけれられておらず、そのままの状態で。こんなパブに来たのは初めてだ。
オーナーのメアリーは、80歳近くにはなろうかというおばあちゃんだったが、しっかりした口調で、この遠方からの珍客を快く迎えてくれた。聞きたいことがいっぱいありすぎて、どこから手をつけてよいのか分からないよ、まったく。
■以前のオーナー、リリーは豪快なランドレディだった■
記録によると、この建物は1683年に建てられた。何に使われていたのか定かではないが、一時はマナーハウス(荘園領主の邸宅)だったこともある。パブとして使われ始めたのは1854年からだ。その20年後に、それを引き継いだウィリアム・シンプソンの、娘でもあり、次のランドレディでもあるリリー・フォードの事を、メアリーはよく知っている。
一言で言えば、豪放磊落、となるのだろうが、たとえばちょうど貨幣制度が現行のように変わったころ、客には、ポンドで支払わせ、お釣りは、自分が持っていたシリングやフロリングで払っていたそうだ。非合理的なことをよくやるイギリスらしく、1シリングは現行では12ペンス、というややこしい貨幣改革だったにもかかわらず、である。いったい、客は納得していたのだろうか? またリリーはVAT(付加価値税)を全く無視し、小銭は受け付けなかったそうだ。また、未成年とおぼしき客は、バーの中に頑として入れない強さがあった。
「そういうリリーの厳しさが、客の中では今でも残っているから、私のとりしまりも楽だわ」
とメアリー。リリーは晩年、関節炎を患っていたにもかかわらず、亡くなる1週間前まで勘定役をしていた。スタッフが注いで、リリーがお金を受け取る、という形式だ。顔見知りや親しい客は、自分で注がせたり、セラーにまで取りに入ってもらった。
メアリーは、そんなリリーが作り出すこのフレンドリーなパブにずっと通っていた。
24年前、1976年にリリーが亡くなった後、この建物がオークションにだされたとき、リリーのパブを残したい,という思いから、メアリーと、建築家をしているメアリーの夫がここを買い取った。
「だって、よその土地から来た人が、リリーと同じようなパブをやれるとは思えなかったもの」
リリーが経営していたころは、入口を入ってすぐのカウンター・バーだけだったので、その右手奥のリリーの寝室と、奥の中2階の一室を改装した。メアリーがこの建物にふさわしい、古い家具を集めたおかげで、初めてここを訪れる客は、新しい2室もオリジナルのものだと思うそうだ。
たしかに、ここには他のパブにあったような装飾がはではでしい装飾は一切なく、木製の床とアンティークなテーブルと椅子自体が、このパブの古きよき雰囲気を作り出している。
「今でも、リリーは、このパブの中にいると思っているわ」
メアリーはそう言って、遠い目をする。客の中でも、同じように彼女の存在を感じる人が何人もいるのだという。
たとえば、店にレジスターを導入したときも、不可解にそれが壊れたことがある。リリーは、現代的な機械を嫌って、古いものを愛していたから、リリーの幽霊が、この店が現代的にならないように見張っているからだ、と客のあいだでもまことしやかに語られたそうだ。
ビールについての考え方も、メアリーは、リリーの考えを踏襲している。
ここでは、カウンターの後ろにおいてある樽から、直接エールビールを注ぐ。そこに置ききれない樽は廊下を挟んで向かいのセラーにおいてあり、客の注文を受けると、そのつどピッチャーで注ぎにいく。
「他の店みたいにパイプを通すと、それだけで味が変わってしまうからね。この方式を変える気はないわ」
ビールを冷やすこともしない。取材時の真夏でも、カウンターの気温は20度までにしかあがらない。セラーは、北側だし、半地下なので、だいたい16度。客はそれくらいのぬるさがちょうどいいという。だからなんと、カウンターには冷蔵庫がないので、ボトルのビールは置いていないのだ。こんな店、ほんと初めてだ!
かつて、このパブの裏でビールが作られていたこともあるという。昔はそれが一般的だった。できたてのビールを一番おいしい方法で注いで、飲む。想像しただけでもゴクリ、と喉がなる。
聞くと、メアリーがここを引き継いでから今までの間、村自体はずいぶん変わったという。かつては5つあった農場も今は1つしかないし、農夫だった家も、サラリーマンとなり、町に通勤している。櫛や小物を売りにきていたジプシーたちでさえも、今ではバンでやってきて、携帯電話を持っている。最近のイギリスの携帯電話の普及率はすごい、というが、まさかここまでだったとは!
「村は変わっても、ここはずっと変わらないわ。ここのビールも、お客さんもね」
■パブでの珍エピソード■
今まで、お客さんの間で、何か変わったことあった? と聞くと、メアリーは「だいぶ前のことだけど」とこんな話をしてくれた。
すでに結構酔っていたオークション帰りの老人・フランクが、ここに入ってきた。飲み始めてしばらくして、バーにいたとある客、若い農場主・ジョンに、彼の持っている土地のいくらかを売りたいがどうだと持ちかけた。二人は金額を交渉し、お互い納得したので、手に唾を吐いて硬く握手した。(アイルランドの映画でも同じ握手の仕方を見たことがある。あんまりいい風習じゃないと思うが…唾にたんが混じってしまったら、ひどくぬるぬるした握手になるし…ま、いいか、どうでも)買い手のジョンが契約金のための100ポンドを貸してくれないか、とメアリーに言ってきたので、快く貸してやった。
こういう話は、こういった小さな村ではすぐに広まる。パブから帰った客が、そういう情報を持ちかえって誰かに伝えるからだ。まもなく、その話を聞きつけた、売り手の方のフランクの親戚の若者が、パブにすっ飛んできて、「俺の遺産の取り分が減るから、土地を売るのはやめてくれ」と慌てふためいている。フランクに「この話はご破算にして、もう家に帰ろう」と説得を試みるが、フランクは頑として受け入れず、パブに一番中居座ってときどき歌まで歌って、すっかりいい気分のご様子。親戚の若者は、ただおろおろするばかり。
「で、しまいには買い手のジョンが、その若者のところに言って耳打ちしたの。『大丈夫だよ。酔ったじいさんにちょっと付き合ってやっただけさ』若者は、ジョンがフランクをからかっていたのだと分かったわけ。そのときの若者の顔とほっとした顔と言ったら!」
とメアリーは思い出し笑いをする。
まるでコメディ映画のワンシーンのような出来事だ。
「バーリー・モウ」は、CAMRAによって、とくに歴史的なパブの認定「ナショナル・インベントリー」のひとつに数えられている。これは数としてはイギリス全体で200くらいしかない。約7万軒のうちの200だから、相当希少なパブなわけだ。
歴史的なのは、建物だけではない。このパブがこれだけ変わらず在りつづけられたのは、全オーナーの経営方針をよく踏襲し、このパブを守りつづけていこうとするメアリーの姿勢によるところが大きい。ちなみにメアリーはビールを全く飲まないそうだ。ビール好きでもないのに、ここを引き継ぐなんて、よほどこの場所とリリーに惚れ込んでいたのだろう。
小さな村で、ずっと変わらずそこに在りつづけるパブ。メアリーの後も、ここを守っていく人がきっと現れるに違いない。
Barley Mow Inn
Kirk Ireton,Ashbourive,Derbyshire,Tel 01335-370306
Mary Short
Special Thanks to Natsumi NAKAYAMA(Derbyshire)
入ってすぐのパブリックバーは、木の床や古い椅子が。
驚くほど質素だ小さなカウンターには,冷蔵庫もないので,
ボトルのビールは置いていないバックバーの樽から、エールビールを
そのまま注ぐという,究極のサーブ方式
隣のセラーにおいてあるビールもあり、
注文を受けるとピッチャーに注ぎにいくカウンターでジャグに注ぐ。このほうほうなら、
ポンプを通すよりも、おいしくエールが飲める前の女主人,リリーの寝室を改造したラウンジ 驚くことにメアリー自身は,ビールを飲まない さすがに看板はレプリカ。以前の
ものに忠実にあわせたという